「あら~お兄ちゃん、来てくれたの。嬉しい!」
「私、ひとりで寂しいの」
「お父さんもお母さんももういないのよ」
「でもお兄ちゃん来てくれたから安心だわ」
「今日はあそこにいくんでしょ?」
「ねえ、お兄ちゃん寒くないの?そんなに肌出して」
季節は夏。
ほとんどの人は半袖なのにC子さんは一年中コート姿。
『暑くないんですか?』
「私、寒がりなのよ~」
デイサービスに通って来られるC子さん、とても明るくお元気。
いつもお迎えに行くと毎回、こんな会話から始まる。
C子さんは何回言っても私の名前を覚えられない。
毎日会っていても
「お兄ちゃん、久しぶりね~」
でも仲良しのお友達のニックネームだけは覚えている。
昨日のことは覚えてない。でも自分が育った環境はよく覚えてる。
お話は好き、だけどかみ合わない。
C子さんはとっても元気な認知症なんです。
先日、デイサービスがお休みの日にC子さん、自宅に帰ることができず近くのコンビニで発見されました。
散歩が好きで活動的だったため、いつかはこんな事になるかもと危惧していたころでした。
翌日のお迎え、C子さんは何事もなかったように笑顔でいつもの会話を繰り返します。
息子さんと二人暮らしで、息子さんは平日の日中はお勤め。
毎日デイサービスに通えたら問題ないですが、介護保険を使える日数も決まっているのでデイサービスがお休みの日が心配だねとスタッフの間で対策を検討始めてた頃、C子さんのひとりお散歩を発見したんです。
私はお休みで出かける途中でした、C子さんとばったり
「あら、お兄ちゃん久しぶりね」
『昨日、一緒にいたじゃないですか』
「私は、家にいて昨日もお散歩してたわよ」
など会話しながら
『今日もお散歩ですか?でも暑いし、ひとりでは危ないから一緒に帰りましょう』
「あら~ありがとう。お兄ちゃん優しいね」
とそのままご自宅までお送りしました。
するとC子さん
「まだ帰らないわよ。1万歩は歩くんだから!」
一万歩?なんかしっかりしてるぞ?
でも、先日のことがあるから無理やりご自宅に帰ってもらいました。
私はそのまま、その場を去りましたがさっきの様子からしてどうも納得して頂けたとは思えない。
振り返り、ご自宅を覗いていました。
案の定、C子さんいつものコート来て、ビニール傘片手(杖代わり)に颯爽とお出かけになりました。
私は、C子さんの傍に行き
『C子さんどこ行くの?』
「あら~お兄ちゃん久しぶりね」
「寒くないの?」
『いやいや、さっき一緒にお散歩しましたよ』
「してないわよ。私はこれからお散歩に行くんだから」
もうすっかりの記憶から消えてしまってました。
『C子さん、さっき行ったから帰りましょう』
「いや、これから行くのになんで帰るのよ!」
『一緒に行きましたよ』
「行ってないんだって!」
C子さん次第に口調が激しくなってきます。
えーい!もう好きにしてくれ!って、C子さんと別れました。
だけど気になる。
急ぎの用事でもないしと思い、そっとC子さんの後をつけることに。
C子さんは車の状況や信号をキチンと見ながら道を確かめるように時には道端に咲いた花を摘み小さな子供さんに声をかけ、鼻声混じりに(そんな風に見えた)とても楽しそう。
ざっと小一時間お散歩して、無事にご自宅に戻られました。C子さんはおっしゃるようにお散歩がずっと日課だったのです。
唯一の自分だけの楽しみ。
他のこと覚えていなくてもお散歩する道は体が覚えているんです。
たまたま帰れなくなった日は夕暮れで周りの景色が変わっただけだったのでしょう。
認知症だからって危ないからって我々は楽しみを奪ってしまっている。
出来なくなっていると勝手に決めつけている。
認知症の方にも楽しみがあり、好きなことがある。それを奪う権利は誰にもない。
何かが出来なくなることで、記憶がなくなっていくことで、全てができないわけじゃない。
無理やり説得され自由を奪われた認知症の方、そりゃ不穏になるはずだ。
出来なくなったことに目を向けるのではなく残されている可能性に目を向けることで活き活きと輝ける。それをみんなが理解することで認知症の方が人間らしく生きられる。
そんな社会を作って行かないと。
C子さんは今日も元気にお散歩です。
でも、違う場所で発見。
大丈夫かな?
今日もこっそり付けたみた
やっぱり楽しそうだった。
「お兄ちゃん、久しぶりね」
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