はじめに
高齢化が進行する現代社会において、認知症の早期発見と早期介入は極めて重要な課題である。認知症は、記憶障害や判断力の低下、日常生活への影響などを特徴とし、本人およびその家族、ひいては社会全体に多大な負担を与える。特にアルツハイマー型認知症(AD)は最も一般的なタイプであり、進行性かつ不可逆的であるため、症状が現れる前の「前臨床段階」での発見が理想とされる。
これまで、認知症の診断は主に脳画像(MRIやPET)や脳脊髄液(CSF)によるバイオマーカー測定に依存していた。しかし、これらの方法は高コスト、身体的負担、専門施設の必要性などの理由から、広く実施するには限界がある。近年、より簡便で侵襲性の低い「血液バイオマーカー」に注目が集まり、その研究と臨床応用が急速に進んでいる。本稿では、血液バイオマーカーによる早期認知症診断の可能性について、最新の知見と今後の展望を交えて解説する。
認知症とそのバイオマーカーの背景
認知症、特にアルツハイマー型認知症は、アミロイドβ(Aβ)蛋白の異常蓄積とタウ蛋白のリン酸化異常を主要な病理とする。これらの病変は、症状出現の10〜20年前から脳内に蓄積し始めるとされる。したがって、これらの病態に関わるバイオマーカーを用いて前臨床期を検出することが、早期診断と介入に不可欠である。
従来は、脳脊髄液中のAβ42、総タウ(t-tau)、リン酸化タウ(p-tau)の濃度測定やPETによるアミロイド・タウの可視化が主流だった。しかし、これらは侵襲的で高コストな上、定期的なスクリーニングには適さない。この問題に対する解決策として、血液による非侵襲的かつ低コストの診断法の開発が求められてきた。
血液バイオマーカーの主な種類と特徴
1. アミロイドβ(Aβ)関連マーカー
アミロイドβ40およびアミロイドβ42は、ADの早期段階において脳内で蓄積し、その血中比率(Aβ42/Aβ40比)が低下することが知られている。超高感度測定法(例:SimoaやIP-MS)を用いることで、血中でも微量な変化を検出できるようになり、CSFやPETとの相関性も確認されつつある。
日本でも、国立長寿医療研究センターなどが開発した「アミロイド血液検査」は2023年に臨床利用が開始され、今後の普及が期待されている。
2. タウ蛋白関連マーカー(p-tau181、p-tau217、p-tau231など)
血中リン酸化タウは、ADの進行と密接に関連し、Aβよりもより高い診断精度を示すとする報告もある。特にp-tau217やp-tau231は、病理的変化のより初期段階を反映する可能性があり、前臨床診断に有用である。
2020年以降、複数の大規模研究において、これらの血中p-tauがPET画像やCSFの結果と高い一致率を示すことが確認されており、次世代の認知症バイオマーカーとして注目されている。
3. 神経損傷マーカー(NfL:Neurofilament light chain)
NfLは神経軸索損傷の指標であり、ADに限らず多くの神経変性疾患で上昇する。しかし、感度が高く、疾患の進行や重症度の評価にも役立つ。特にADの進行期における疾患モニタリングや予後評価に有用とされている。
4. 炎症・免疫関連マーカー
近年、認知症と免疫系や全身性炎症との関係性も指摘されており、インターロイキン-6(IL-6)やC反応性タンパク質(CRP)などの炎症マーカーの変動が認知機能と相関する可能性がある。ただし、これらは非特異的であり、診断単独での使用は困難とされている。
血液バイオマーカーの利点と課題
利点
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非侵襲的で、患者の負担が少ない。
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採血のみで済むため、スクリーニングとしての応用が可能。
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地域医療機関や健診等での普及が見込まれる。
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複数回の測定による経時的変化の追跡が可能。
課題
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個人差(年齢、性別、合併症など)や前処理方法による測定値のばらつき。
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測定技術(超高感度装置など)の標準化が未完成。
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疾患特異性の確保(認知症の他タイプとの識別が不十分な場合あり)。
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保険適用や社会的受容の整備が未完了。
最新の研究動向
2020年代に入り、欧米・日本を中心に複数の血液バイオマーカー研究が進行中である。米国では、バイオジェン社やエーザイ社が開発した抗Aβ抗体治療薬(レカネマブなど)と連携して、治療対象者の選定に血液バイオマーカーを用いる臨床試験が行われている。
また、日本においても、名古屋大学や理化学研究所などによる大規模コホート研究が進行し、国内向けの診断基準構築が進められている。
加えて、AIや機械学習を用いた多項目の統合解析による診断精度の向上も試みられており、今後は単一バイオマーカーではなく、複数のバイオマーカー+臨床情報を組み合わせた「統合診断」の実現が期待される。
将来展望と社会実装への課題
血液バイオマーカーは、今後の認知症診断のパラダイムを変革する可能性を秘めている。特に、健常高齢者の中から高リスク者を早期に特定し、ライフスタイル改善や治療介入を行うことで、発症や進行を抑制できる可能性がある。
ただし、以下の点についても十分な準備が必要である。
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倫理的配慮(無症候の高リスク者への告知方法など)
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教育と啓発(医療者・国民双方への知識普及)
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保険制度との整合(診断だけでなく介入までを包括する制度設計)
おわりに
血液バイオマーカーの登場は、認知症診断をより早期かつ低負担にするという点で大きな前進である。研究は日進月歩で進んでおり、今後さらに多くのエビデンスとともに、日常診療や公衆衛生分野への応用が期待される。社会全体がこの新技術を受け入れ、有効に活用するためには、医学的・倫理的・制度的な多面的対応が求められる。これからの10年は、認知症予防医療における大きな転換点となるだろう。
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